木更津市芸寮組合 組合長 親春日みきさんインタビュー
ミナートARTWEEKの会場の1つ「木更津会館」は、木更津市芸寮組合の拠点です。
歴史あるこの場所は、木更津市芸寮組合に所属する芸者さんたちが稽古場として利用したり、一般の人が見学に訪れる場所。
今回のミナートARTWEEKでは、2階のお座敷にアーティストの斎藤英理さんの作品と、斎藤さんがワークショップを行った木更津第一小学校の6年生の児童のみなさんの作品を展示しています。
この日は、そのお座敷で組合長の親春日みきさんから、これまでの芸者さんとしての生活や芸者さんになる前のお話などを伺いました。
この木更津会館の天井は「船底天井」というの。天井の両端より真ん中が高くて、斜めになっているでしょう。
お料理屋さんみたいな造りね。
木更津市新田の斎藤建設さんが作って、昔のまんまよ。
今は畳の部屋で踊る機会も増えたけれど、やっぱり踊るなら木の板の舞台がいいのよ。踊りの演目によっては、床を足でトンと打つのもありますからね。
今、木の板のある舞台があるのは「ホテル割烹いづみ」さんだけ。他の料理屋さんは、舞台だったのをお部屋に変えてしまったの。そもそも最近は呼ばれるお座敷が減ってしまって、芸者衆が呼ばれるようなお座敷は「宝家」さんや、「東京ベイプラザホテル」くらいかね。
私は八街出身で、昭和43年に芸者になって、今年で54年目。
昔は座敷にお呼ばれするのも同じ日にいろいろなお部屋に呼ばれて、それぞれの部屋で「玉代(ぎょくだい)」をもらえたのよ。「玉代」というのが私たち芸者のお給料のこと。
その昔は「お線香代」と呼んでいたの。お線香を付けて終わるまでの時間だけ、踊りや唄を披露したからそう呼んでいたらしいのよ。
私たちの時代には、夜の6時にお座敷に入ると、夜中の12時まで玉代をもらえたの。6時間も働けたのよ。そういう時代もあったけれど、今は2時間で終わっちゃう。長くても2時間半。時間は短くても、同じだけ美容院代や衣装代をかけているから大変よ。
<お座敷で親春日みきさんを囲んでお話を伺う。
みきさんは足を怪我をされた中、来ていただきました>
私が芸者になったきっかけでもあるんだけど、実は私ね、1日だけ結婚したことがあるの。
1日だけね。
次の日に新婚旅行に向かう途中で逃げたの。
その慰謝料を払うために芸者になったの。それが昭和43年。慰謝料として、当時の30万円を払ったの。
今でもそうだけど、若いときから私は「夢見る夢子さん」だったからね。
だから自分が好きな人以外は絶対にダメなタイプなのに、千倉に住んでいた人に望まれて、周りも勧めるのでそんなものかなと思って結婚することになってね。でも、館山まで指輪を買いに行こうと車に乗せられて、そのときに手を握られたら、鳥肌が立っっちゃったの。だから、思わず手を払ってしまってね。
そのときに、「私この人のことダメなんだ」ってやっと気づいたのよ。
結婚式のときも、嫌だからずっと顔を背けていて、友達にも気付かれちゃってね。
次の日は新婚旅行に電車で出発して、館山で乗り換えがあったから「ここで降りて逃げよう!」って考えて、見たらちょうど駅前にお店があったので「足りないものを買いに行って来る」と言って電車を降りようとしたら、相手も何か気付いたのか「荷物は置いていけ」というのでハンドバックだけ持って降りて、すぐにタクシーに乗って、木更津にいた友達のところに逃げ込んで、しばらく押し入れに隠れたの。
悪いことをしたなと思ったけどね。
そのあと、相手から別れるのなら慰謝料をくれというので、払うことになったの。たまたま籍を入れる前だったから、本当によかった。
<ブラタモリでも紹介されたことがあります>
芸者衆は、男と一緒に逃げてきたとか、子供がいてとか、みんなそれぞれに事情があるでしょうけど、私の場合はこうなのよ。
好きな人以外には絶対に触られるのも嫌なの。
置屋のお父さんに言われたのは、「男女の仲はシーソーゲームなんだ。それなのに、お前は押しっぱなしだから、たまには引くことも覚えろ。そんなに押されると、重荷になって男も逃げる。駆け引きをしろ」ってね。
好きになると、全力で押しちゃう。
昭和43年からこの世界に入ったから、ちょうど高度経済成長期。毎日、お客様として新日本製鐵さんが来て、忙しかった。
だから、ずいぶん勉強したのよ。英語、ロシア語、イタリア語、ドイツ語…。挨拶くらいしゃべれないとね。
新日本製鐵さんは、工場はいろいろなところにあるけれど、芸者のいる街はここだけ。だから、君津の工場に行けば芸者を呼べる、と海外の人にも申し送りをされているんだと思うの。それくらい、海外のお客様が見えられた。
他の芸者さんは、慣れていないから外国の方のところには行きたがらないのね。でも、海外からいらして、ほんのひと言ふた言だけでも、お国の言葉を話すだけでも嬉しいと思うのよね。だから、私は小さなメモに、本で読んだ挨拶をカタカナで書いておいたの。意外に通じるのよね。
最初に教えてもらったのはドイツ語で、「今度ドイツ人が来るから『イッヒ リーベ ディッヒ』と言ってごらん」と、からかわれてね。もちろん意味が分からないから、挨拶の言葉かと思ってドイツ人が来ると言っていたのよ。
そしたら、ある人に「そんな言葉を言ってはいけない」って注意されてね。やっと、それが「I love you.」の意味だって知ったのよ。笑っちゃうよね。そんな感じで始まって、いろんな方たちと交流をしてきたの。
だから、普通は故郷の人に芸者をしていると言うのは恥ずかしいと思うのらしいけど、私はちっとも恥ずかしくない。故郷に帰ったときにも、私は芸者をしているというのをはっきりと言っていたの。だって、そこにいたままだったら会えないような、テレビに出演しているような有名な財界人と、お座敷であだ名で呼び合えるのは私たちだけなのよ。
その代わり、守秘義務があるから、お座敷でお客さまが話したことは、外ではしゃべっちゃダメ。
おもしろかったわね。芸者衆もたくさんいたしね。
私は調理師の免許を昭和45年に取っておいたの。将来何かをしたい、と思ってね。それで、芸者をやりながら30年間くらい小料理屋さんをやっていたときに、お座敷のお客様も通ってくれていたの。
お料理を作るのも好きだったしね。
お座敷は6時から8時の間。戻ったら小料理屋さんを開くの。お料理は昼間に作っておいてね。
「信楽」というお店。テレビにも出たりしましたよ。
「信楽」という名前にした話をするとね、長くなるんだけど。
まだ芸者になる前の若いときの話で、ウチの姉が映画好きだったんだけど、映画館に1人で行けないから私を連れて行ったの。そこで見た映画の中で、私は桜町弘子さんという富士額のきれいな女優さんに憧れていてね。だから、お弟子さんになりたかったから京都の撮影所まで行ったけど断られて、その帰りに、湯呑み茶碗に落雁が入って「信楽焼」と書いてあるのを見つけてね。
「信じる楽しい」よ。
すごくすてきな名前でしょ?
それまでの私は、陶器といえば「瀬戸物」しか知らないから、こんな焼き物があるのねと、それから陶器にも興味を持つようになったの。
「信楽」はそれからずっと温めていた言葉で、お店を開くときに使ったのよ。
京都から戻ったあとは、19歳の頃から、銀座のエレベーターガールになって、八街から銀座まで通っていたの。
朝5時半に家を出て、千葉と秋葉原で乗り換えて、有楽町に到着するのが7時45分くらいで、会社は始業が8時。5階建のビルで、昔のエレベーターは手動式だったのよ。ドアはジャバラの2枚ドアで、エレベーターの行き先は、針を回してフロアを指して動かすのよ。銀座で2番目に古いエレベーターで、一度に8人しか乗れなかったの。
その頃はデパートだけでなく大きな会社にはエレベーターガールがいてね。乗る人は、初対面だと自分は何階の誰か自己紹介をして、乗るたびに言ってくれるのだけど、しばらくすると言ってくれなくなっちゃう。顔とフロアを覚えなきゃならなかったから大変よ。
東京交通会館を作っている時代で、東京国際フォーラムの場所は、東京都庁だった頃ね。
帰りは両国から汽車で帰るのよ。
今も両国にコンコースが残っているけれど、一段低くなっているホームがあって。
私が一番早く仕事が終わるから、最初に行って汽車の席取りをしておくの。後から友達が3人来て、一緒に帰るの。汽車に乗るときには、おこづかいから20円残しておやつを買って乗るんだけど、なぜ20円を残すのかというと、佐倉でアイスを買うからなの。ホームに売りに来るのよ。「いせや」というお弁当屋さんがあって、アイスも売っていてね。
それが楽しみだったんだから、色気より食い気。
八街に住んで銀座に働きに行って、それが千倉の人に求婚されたのは、姉の旦那さんがきっかけなの。姉の旦那さんが千倉の人で、夏休みにはよく遊びに行っていて。それで見そめられたらしいのよ。
周りの人は「好きな人と一緒になれないなら、惚れられて一緒になった方がいいよ」と言ってさ。
当時は男性と付き合った経験がないから、「そんなものかなぁ」と思って、「うん」って言っちゃったのね。
でも、手を握られたら気持ち悪くて、ピンっと手を払ってしまったものだから、自分でも、もうダメって思って。それからはさっき話した通り。
元々が好奇心旺盛でなんでも知りたがり屋だったから、陶器も「信楽」というものを知って、窯元を回るようになって、小料理屋を開くようになってからぐい呑みを飾るようになったね。
でも、信楽町には行ったことないの。遠いから行けなくてね。
お客さんから「信楽」と名乗っているのだから、信楽町に行かないと、と言われて計画した矢先に信楽高原鐵道の衝突事故があって、お客さんからとても心配されてね。覚えてない? 1991年だったかな。
結局、お店の「信楽」は2011年、東日本大震災のあとに閉めたの。木更津市は、計画停電が多くてお客さんも来れなくなってね。
閉めてよかった、こんな時代になってしまって、大変だよね。
<親春日みきさんとアーティストの斎藤英理さん>
たまには飲みに行きたくなるけどね。昔は本当に飲まされたもの。
ロシア人のお客様のときは、ウォッカよ。
ウォッカを、「Очень хорошо(オーチン・ハラショー)!」と言って、ストレートで飲まなきゃならないの。
飲み過ぎてヘベレケになって帰れなくなって、「ホテル八宝苑」によく泊まったわ。
朝、着物で帰ってくるのは恥ずかしいのよ。
中国の人は、茅台(マオタイ)酒を飲むから同じくらい大変よ。茅台酒も度数が50%とか強いのに、ストレートで飲むのよ。
ロシアも中国も寒いからかね?
私が北京に行ったときにも寒かった。
今年が日中国交正常化50周年でしょ。私が行ったのは20周年のときで、八剣八幡様の神輿を担ぎに行ったのよ。
「ミナート」でも八剱八幡様が展示会場になっているのよね。
今は足を怪我してしまっているから歩くのが大変だけど、調子のいいときに見に行きたいわね。
(終)
文:松本佳代子